大学院音楽学研究室ブログ-Osaka College of Music

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来し方八十年(永井幸次自伝)1954年を再読する

勤務校の創設者、永井幸次先生の自伝を再読しています。
というのもある英語論集に寄稿するための必要に迫られて本棚から取り出したのですが、今読むと、昔読んだ時とは異なる新たな感慨があります。
特に、大阪音楽学校を創設しようとしたときの記述がとてもよいのです。
 まず、在阪の「七声会」というグループに「洋楽不毛の地、大阪に音楽学校を」と呼びかけるのですが、メンバーのみなさん、音楽学校を作ると自分の弟子が減ると反対します。
そこで永井さんは「では、自分が私費でつくってもよいですか?」と尋ねて皆さんの同意を得ています(とても謙虚な方ですね!)。
しかし、高価なピアノやオルガンを購入する資金がありません。うまい具合にコンクール「御大典奉祝唱歌」に応募した唱歌が受賞し、賞金百円を獲得、それを元に借家に音楽学校の看板を掲げました。その受賞曲がなんと今の校歌です。大正四年と歌詞の冒頭にある通り、1915年の出来事でした。
その後も自身が作曲した唱歌の印税を楽器購入や学舎の土地購入に充てるといった資金面の苦労は絶えず、資金不足は永井さんの最大の悩みであり続けたようです。
しかし当時の印税はかなり高かったのでしょうか、創立10年目にして早くも鉄筋コンクリート4階建ての校舎が竣工したのです。
この自伝は非売品ですが、音大図書館にはあるはずです。大半は幼少時から東京音楽学校時代、音楽学校創立までの青春時代に割かれています。
5歳で教会の讃美歌に出会い、その後、アメリカ人宣教師から小型オルガンをプレゼントされたことや、家計のために農業に従事していたけれど音楽学校に行きたくて両親を説得したこと、音楽学校受験のために人力車で姫路まで出てようやく鉄道という道中など、朝のドラマの牧野富太郎の上京と重なります。鳥取から上野に出てきて驚くことがたくさんあったでしょうね(ただし、音楽学校のレベルについては辛口です)。
 
自伝を読むことで、くしくも私立学校の成立や発展、その裏側にあった苦労を知ることができます。
(井口)

来し方八十年 永井幸次著 1954年