音楽畑秋号を発行しました。
<秋号Contents>
●巻頭言 井口淳子/祈りが「うた」になるとき
●夏期合宿
・合宿日程
・専攻生の感想
●お知らせ
●おんがくあそび?
●編集後記
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巻頭言をご紹介します。
【音楽畑 2008年度 秋号 巻頭言】
祈りが「うた」になるとき
井口 淳子
生まれ育った家が浄土宗の古い寺の檀家だったので、「お盆」というと、8月の13日から15日まで毎日、家族全員が長々と読経し、最後の送り日には各家、手作りの船にロウソクをともし、近くの川にその船を流すのだった。
今年、3度目になる黒島(石垣島の南西に位置する人口200人の島)行きは、盆で先祖を迎え、ふたたびあの世にお送りするさいの「お経のようなうた」をききたいがためだった。すでに、この島にもうたえる人はFさんただ一人となっている。
今年の春にFさんにはじめてお会いしたとき、「きいても意味はわからんでしょう、それに一人ではできんし…」と気乗りがしないという風だった。加えて、台所から奥さんが「盆には孫たちが帰ってくるからお客は無理」というような意味のことを方言でご亭主に忠告していた。
なので、実際、黒島に到着してからも「本当にうたがきけるのかどうか」確信はなかった。
送り日の旧暦7月15日、夜9時、私はサキシマハブを恐れつつも、Fさん宅につづく道を急いでいた。電柱がない道の先に、ようやく集落の明かりが見えてきた。Fさん宅にも親戚が勢揃いし、静かにあの世から戻ったご先祖たちとの最後のひとときをまっていた。
ついに「コウフダイ」がうたわれた。母音を長くのばすため、息がつづくかぎり一音一音をひきのばしつつの詠唱は、あたかも「もっとこの世にとどまっていただきたいのですが、あの世にお帰りください」というこちら側の人間のおもいをあらわしているようにきこえた。
最後の「アミダグトゥキ(阿弥陀仏)」ということばが3回となえられると、全員が手を合わせ、うたは終わった。
ひとときの静寂がおとずれ、Fさんの日常の声で、みなは我にかえった。
「うたは祈りから生まれた」、とふだんの授業で教えつつも、その実感に乏しい私にとって、この、お経とうたの境界にあるような「コウフダイ(孝不題)」をきくことができたことは、とても幸運なことだった。祈りにこめられたおもいが、ことばにふしを与える、そんな瞬間がたしかに存在することを確認できた今年の夏だった。
2008年9月12日記
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資料室に置いていますので、専攻生のみなさんは持っていってください。
今回は、少したのしいゲーム(?)も載せてみました。
(く)